法華経【第五章】薬草喩品その4
法華経と共に
さっそくですが
前回の続きから始めましょう。
多様な個性の人々を等しく潤すのは、智慧即慈悲の大境涯で有ると、法華経では、説かれいます。
師匠でも有り、親でも有る、仏の慈悲に潤されるのです。そして自身も慈悲の当体として成長するのです。人間を潤すのは人間です。生命を潤すのは生命です。
薬草喩品の最後には「仏の説きたまう所の法は、譬えば大雲の、一味の雨を似て人華を潤して、各おの実を成ずることを得しむるが如し」と有ります。
そのカギが法華経の人間主義にある。その具体化は「慈愛の人格」です。
この「人華」という言葉は、個性を持った一人一人の人間の開花というイメージが強く出ています。
釈尊には、どの人も桜梅桃李の果実を実らせる、色とりどりの花のごとく見えたのでは無いでしょうか。その「心」を薬草喩品で学んで行きましょう。
これは「多様性の調和」という二十一世紀の根本問題に直接、関わってくる。多様な民族・文化が、その多様さを尊重しつつ、同じ「人間」「生命」という次元で連帯して行く。それ無くして人類の未来は無い。多様性が世界に「対立」をもたらすのでは無く、「豊かさ」をもたらす様にしなければならない。
あのガンジーが、インドの独立運動で、あれほど多くの民衆を動かせたのは何故か。その根本の要因は、ガンジーの人格にあったのでは無いか。真理に生き、戦いぬいて、磨かれたガンジーの人格が、民衆の心を潤したのではないでしょうか。
象徴的なエピソードは、ある重要な会議を前にガンジーは着席していた。しかし、何かそわそわした様子で、あたりを見回したり、机の下を覗いたりしていた。
「何か、お探しですか?」ある人が聞くと、ガンジーは「鉛筆を探しているのだ」と答えた。
たずねた人が、「それでは自分の鉛筆を使ってください」と差し出した。
すると「この鉛筆は、私が探している鉛筆ではない」と言いました。
たずねた人は、これから大事な会合が始まろうという時に、どうしてこんな小さな事にこだわるのかと不思議だった。
「どうして、こちらの鉛筆ではいけないのですか」とたずねると「その鉛筆では駄目なんだ」と答えた。仕方がないので一緒に机の下を探した。やっと鉛筆は見つかったが、わずか3センチ程の鉛筆だった。
ガンジーは説明した。「私が以前、独立運動を呼びかけ、援助を求めて各地を演説して回っていた時、ある会場で一人の少年が、この鉛筆を私に寄付してくれた。子供にとって大事な鉛筆を、独立運動の為に差し出してくれたのだ。そんな一人一人の国民の「思い」を忘れて、私の政治活動はあり得ない。
こうした一人の少年の「心」を忘れて、いくら政治を論じたところで、それは空論に過ぎないだろう。この気持ちを私は捨てる事が出来無いのだ、と。
彼にとって、ちびた鉛筆は鉛筆では無かった。美しい「心」そのものだった。だから捨てられ無かったのです。
人々から「マハトマ(偉大な魂)」と尊敬されていたガンジーが、一方では「バプー(お父さん)」と呼ばれて親しまれていた秘密が、この辺りにあるのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、真心の白米を供養された時、こう教えてくださっています。「白米は白米にあらず・すなはち命なり」と。
本当の人間の世界においては、物であって物では無い。命であり、心なのです。いわんや人間自身は、最高にかけがえのない存在なのです。
ガンジーには、民衆に対する無限の信頼があったのです。「一人に可能な事は万人にも可能である」という信念が。そして「非暴力」の理想を説き、大規模な民衆運動を組織化して行きました。
一人一人の個性を尊重し、勇気と希望を与え、喜びも苦しみも分かち合い、多くの人々が団結する。和気があり、触発があって、真の民衆運動が成り立ったのです。
ご視聴ありがとうございます。
続きは、次回のお楽しみに。
法華経【第五章】薬草喩品その4


