信じる事とは、師弟とは。
信解品.法華経【第四章】その1
法華経と共に
「信解」とは、「心から納得する」という事です。
誰もが納得出来る事が大切だと仰せです。
信解品は、二乗作仏が説かれた歓喜から開幕致します。(二乗作仏=声聞・縁覚の二乗でも悟る事が出来る事)
「信解」とは、優しく言えば「心から納得する」という事です。
誰もが納得出来る事が大切です。
法華経はそういう信仰を説いている。
断じて盲信では無いのです。
この信解品を通して、「信仰とは何か」「信ずるとはどういう事か」を学んで行きましょう。
前回の法華経.第三章.譬喩品で、釈尊は、舎利弗が将来、「大宝厳」という時代に「離垢」という世界で「華光如来」という仏になるだろうと保証を与えました。
これまで諸大乗経では、成仏出来ないと厳しく糾弾されていた二乗が、将来、必ず成仏出来ると初めて説かれたのです。糾弾=罪や責任について追及し、非難すること。
それを受けて、須菩提ら声聞を代表する四人が、その喜びを語ります。
「解空第一」と言うわれた須菩提、解空とは、空を理解すると言う事。空とは自分の肉体も固定不変な実体はないという悟りです。固定不変とは、姿形も永遠に変わらないと言う事です。しかし歳を重ねて行けば肉体も変わって行く。それはさまざまな因縁によって変わっていくもの。因縁によって生じるものは空なのだという悟りです。
「論議第一」の迦旃延、
「頭陀第一」の迦葉、頭陀とは衣食住への執着を払い、煩悩を取り除くための修行のことです。
「神通第一」の目犍連、神通とは、普通では見たり、聞いたり、感じたり、出来ないことを感じ取る超人的な能力です。 この能力により、地獄で苦しむ身内の姿を知り、救うために供養をされたそうです。
目犍連は、「釈尊が舎利弗に対して、将来、阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るだろうと記別(成仏の保証)を授けられた事を聞いて、味わった事の無い様な感動を発し、心も歓喜し、身も踊躍しました」と。
この「未曾有の事に出会えた喜び」を語ったのが、今回の信解品です。
彼等は「僧の首」、即ち釈尊の教団のリーダー、最高幹部でした。
しかし、もう年老いて枯れてしまった、と。
また、すでに自分達は悟りを得ていて、もはや頑張る事は無いと思っていた。
そして、進んで仏の得た無上の悟りを求め様としていなかった。
立場がある。
年功がある。
経験がある。
四大声聞は、そこに安住してしまっていた。
自分達は長い間、修行をして、年老いた。それなりに悟りを得た。もう、これで十分だ。師匠の釈尊の悟りは確かに素晴らしい。けれども自分達には、とうてい及びもつかない。だから、このままで良いんだ・・・と。
この様な、大幹部の無気力を打ち破ったのが、舎利弗への受記だったのです。一生涯、熱い求道心を燃やし続ける。それが、法華経の教える人生です。
「永遠向上」の心を教えているのです。「不退」の決意をうながしているのです。「進まざる」は「退転」です。仏法は、常に向上です。前へ、前へと進むのです。「永遠成長」です。
それでこそ「永遠青春」です。生命は三世永遠なのです。
法華経に至って、二乗達は釈尊の叱咤・激励を全身全霊で受け止めた。
そこで初めて、人々に正法の声を聞かせる「真の声聞」として蘇生したのです。若返ったのです。みずみずしい向上の人生を再び歩み始めたのです。
自分達も仏になれるのだ!
感極まった言葉が「無上宝聚 不求自得」無上の宝聚は宝の集まり、法華経の教えとも言えるし、仏界とも言える。また、仏界を具えた自分自身の生命とも言えるでしょう。
誰もが、この「生命」という無上の宝を平等に持っている。
不求自得、一番大切な物を「求めずして、おのずから得て」いるのです。
それを自覚出来るか、否か。
それを最も深く自覚させるのが法華経なのです。
発奮した二乗達は、感動のままに、自ら理解した法門を譬喩に託して語ります。
それが有名な「長者窮子の譬え」です。
この続きは、次回のお楽しみに。
信じる事とは、師弟とは。
信解品.法華経【第四章】その1


